[3]天皇と皇子女の名前



皇子女の名前の由来

 皇子女が誕生したとき、その七日目、世にいうおしちめいめいが行われている。これは明治8年(一八七五)「おうじよこうたんしよしき」において制度化され、その後も明治33年(一九〇〇)に制定された「皇室婚嫁令」しきなどで規定されていた。それらによると、誕生に当たって、天皇はき文字を選んで皇子女に授けるという。

 この名をいみなともいい、皇太子の子が誕生の場合もその諱を天皇が選んで皇太子に授けて命名するとし、その他の皇親の子の誕生の場合は、直系のそんぞくが命名すると定めている。命名に関する法規は存在しないが、このような命名方法は長い皇室の歴史の中で慣例化していたものを制度化したものである。

奈良時代以前の命名法

 古くは命名の次第などは定かでない。たとえばしかく21ゆうりやく天皇は『日本書紀』に「おおはつわかたけるすめらみこと」とあり、埼玉県や熊本県出土の鉄剣に「獲加多支鹵大王」と刻まれていた。「大泊瀬(オホハツセ)」の「オホ」は美称、「ハツセ」は雄略天皇の都が置かれた地名か、宮都のはつあさくらにちなんだ名称のいずれかで、「幼武(ワカタケル)」は尊称である。しかし古くは皇子の生誕地や、養育にあずかった地域・集団などの名称、兄弟関係にちなんだ例が少なくない。

 地名による例にしかく20あんこう天皇のあなしかく31ようめい天皇のいけなどがあり、大小などの長幼の序次による例としてはしかく12けいこう天皇のおおたらしひこしかく13せい天皇のわかたらしひこ、雄略天皇の大泊瀬幼武としかく25れつ天皇のはつわか鷦鷯さざきがある。また生母の名による例としてはしかく34じよめい天皇のむらしかく39こうぶん天皇のはよく知られており、の名にちなむものに、しかく32しゆん天皇のはつしかく38てん天皇のかつらしかく40てん天皇のおお海人あましかく44げんしよう天皇のにいのしかく45しよう天皇のおびとしかく46こうけん天皇のなどがある。特に奈良時代以降その例は多い。

平安時代以降の命名法

 平安時代の初め、しかく52天皇の名前のかみにちなんで、「先朝の制、皇子の生まれる毎に乳母の姓を以て之が名とする」(『日本文徳天皇実録』嘉祥三年五月壬午条)といわれている。しかし乳母の姓にちなむ例はその後は見られず、嵯峨天皇の皇子まさしかく54にんみよう天皇)以降は二文字の漢字を組み合わせて名乗るのを例としている。その中でも、しかく55もんとく天皇はその皇子で、後のしかく56せい天皇に「これひと」と命名して以降、歴代天皇の中には漢字二文字中、下の文字に「仁」の一文字を用いる例が多くなり、特にしかく70れいぜい天皇の諱のちかひと以降、女性を除く皇親の諱はおおむね「~仁」と命名されており、歴代天皇の諱もしかく82しかく84じゆんとくしかく85ちゆうきようの三天皇としかく94じようしかく96だいしかく97むらかみしかく98ちようけいしかく99かめやまだいかくとうおよび南朝方の天皇の五天皇の合わせて八天皇を除くすべての天皇に「仁」の一字を用いている。明治8年(一八七五)制定の「おうじよこうたんしよしき」に、新誕の男子は「~仁」と命名すると定められた。

 女子については、奈良時代に藤原氏出身の女性に~子とする例が見られるが、平安時代初期の嵯峨天皇の皇女に「子」の文字を付して以来、これが定例となって明治初年に及び、皇親男子と同様に、皇親女子の名前も「皇子女降誕諸式」に成文の法規をもって「~子」とすると定められた(近現代における命名の儀→別巻27)。

称号としての宮号

 命名の儀とともに、称号としての宮号が授けられる。近代以前の命名の儀しんのうせんと同時に行われることが多く、誕生後も命名までかなりの期間を要することもあった。このため平安時代中頃以降、皇子女に対し、一宮二宮若宮今宮などの呼称が用いられ、親王宣下による命名後も一般的呼称として用いられたが、江戸時代になると、皇子女が誕生するや、じゆしやに命じてよきを選ばせ、お七夜に天皇はしんぴつみようがきを下賜するのを例とし、しんのうにおいても誕生の王子に父親王から名字書を渡されている。明治時代になると、皇室の諸制度が改革され「皇子女降誕諸式」の制定により、従前の別称としての宮号は廃止することとしたが、特に皇子・皇女にはべつ殿でん・御住所の殿名をもって宮号とすると認め、同式制定の三日後に降誕の明治天皇の第二皇女には、お七夜に当たりしげと命名、同時に殿名にちなんでうめみやと称した。しかし実例によると、その後は殿名に限ることなく佳字を選び、諱と同時に天皇から宮号を与えられており、また皇子・皇女に限らず、皇孫子・皇孫女もその例にあずかっているが、称号たる宮号を与えられるのは天皇の直系親に限られている。

諱を避ける

 天皇・上皇の名を直接呼んだり書いたりするのをはばかることをという。そもそもいみなむ名に由来するといい、死者の生前の名を忌むことから生前の名を諱といったが、生前すでに本名を諱という。平安時代に作られた『養老令』の注釈書に「避諱」とあり、皇祖以下の名号、諱を避けることをいうとある。おそらく避諱の制度は、『大宝令』にも規定されていたと考えられる。

 さらに『日本書紀』によると、大化2年(六四六)8月のみことのりに「王の名を以て、軽々しく川野に掛けて名を呼ぶ百姓等は誠に畏るべし」とあるが、これらは唐制にならい、このころすでに御名を敬避することが行われていたのであろう。その後の実例によると、和銅7年(七一四)6月にわかたらしという氏はしかく13せい天皇の諱に触れるとしてその氏の名を改めてこくぞうひとと与えられ、奈良時代末に人名や郡郷山川の名で天皇の諱に係わるものは皆、変更させているが、これらの諱の忌避は天皇以外にも適用、さらに地名、年号、宮殿名にまで及んでいる。

 たとえば地名について、しかく51へいぜい天皇の諱の殿と同じ発音のために、紀伊国郡をあり郡に改めたとか、しかく52嵯峨天皇のかみと同じ文字の伊予国かん郡の地名を郡に改称している。宮殿名の例もある。しかく74天皇はおお殿への遷幸に際し、大炊は廃帝になったしかく47じゆんにん天皇の御名にちなむことから、おおかどを改めてとういんと呼んでいる。

 このように名を忌避することは、天皇・皇親に限らず貴族はもとより一般庶民の中でも広く行われていたようであるから、皇室関係の特殊性とはいえないが、右の諸例のように、天皇・皇親の名に酷似した名前については強制的に改名させている。これが、奈良時代から平安時代も前期ごろまでであることは、国家権力のありようにも係わる。

 また江戸時代以降、天皇の諱を避けるということから、諱を記す場合、その末尾の一画を書かないことをけつかくといい、江戸時代末にしかく120にんこう天皇は闕画の制のれいこうを令し、しかく121こうめい天皇はこう以下三代の御名は闕画すべきと命じている。しかし明治維新後に、闕画の制度は廃止された。

[米田]